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- 下中野村(近世)とは
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下中野村(近世) 江戸期~明治15年の村名安芸国高宮郡(もと安北郡)のうち南・西を帆待川に面して位置する古くは上中野村と一村であり,両村の地は混在する地名の由来は,「郡中国郡志」に「東ニ可部町西ニ河戸有之其中野村故中ノ村ノ得名申候」とある広島藩領蔵入地村高は,元和5年「知行帳」423石余,「芸藩通志」503石余,「天保郷帳」498石余,「旧高旧領」503石余帆待川沿いでは江戸初期から新田開発が進行し,寛永15年の地詰で498石余となる北部山麓の上ケ原新開は正徳4年の地詰で畝数3町余・高4石余雲石路は太田川八木渡しから当村を通り可部町に抜ける可部町の船入堀に出入りする川舟が帆待川を往来した「郡中国郡志」によれば,戸数295(うち浮過85,医師3,大工・左官各2,寺・瓦師・鍛冶各1)・人数1,343,牛28・馬5,村況は「無高浮過多ク五歩方ハ可部ノ船ヲ乗リ上下ノ荷物運送ヲ働キ又ハ問屋商事ノ中脊ヲ稼女ハ山繭横紬ヲ織出シ市立或ハ煙草ヲ刻小商売仕候」と記し,可部の産業活動に係って生計を立てる者が多かった真宗勝円寺はもと真言宗で,大同年間の開基と伝え,永正11年改宗熊谷氏の菩提所であった蓮華院阿弥陀寺は熊谷山と号すもと大林村にあり,同氏が毛利氏に従い長州に移住した後当村に移るが,やがて廃寺となる八木には八幡宮がある藩は元治2年紬御場所を設置し,山繭紬に対する統制を行ったが,明治2年近隣の村々の女性が紬の自由売を要求,翌年には直訴のため八木渡しに集まるという山繭紬騒動が起きた(可部町史)同4年広島県に所属同15年一部を可部町・中島村・水落村に編入,同年中野村の一部となる現在の安佐北区可部町中野・可部1~9丁目・可部町中島・可部町城のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下中野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下中野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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